摩耶山麓 閻魔堂の過去、現在。
上野道を下る
2016年5月22日。前半の登りは木ノ袋谷。いやはや驚きの連続だった。さて、掬星台からの帰り。ロープウェイの定員は25名。手前で遮られた。待つのも面倒なので+汚れた服っていう理由もあって、上野道を歩いて帰ることにする。
旧天上寺に来た。ここでゴミステーションの写真(また記事を書く予定です)を撮り忘れたことを思い出して登り返す。写真を撮ったあと、結局ロープウェイを利用することにした。
16:13 千万弗展望台跡でまったりしていると、16:14頃にケーブルが出発してしまった。(「次のケーブル発車は16:20です」とロープウェイのおりばで案内があったのにね…)もういいや、歩いて帰ろう。
虹の駅周辺にはこのような廃屋が数軒ある。これは中でも一番大きい廃屋。立派な建物だ。上野道をずっと下ってくると鉄棒がある。錆びていたんだけど、塗り替えられたいた。少しだけ懸垂したりする。
十六丁道標の地点の小屋。なんだこれは…。歴史のある道標の側がこれじゃあなぁ…。かなしい。※ここから写真左手の道を進めば神戸高校へ下れる。
ここが上野道の登山口。十七丁道標がある。比較的新しそう。(古いのは摩耶ケーブル下駅の階段脇にある石柱と上野道途中の十三丁道標。)
ここから下って左手に…
※写真1 上物(スイートチャーム神戸摩耶)に似合わない基礎がある。これが閻魔堂の基礎。
1年ほど前に確認した話
六甲摩耶再度山路図の上野道の入り口付近に示される「光明寺」がずっと気になっていた。(古い絵にも閻魔堂の名前が確認できる)。しかし現在そのようなお寺はない。 「摩耶山案内」に「十王山光明寺 一名閻魔堂」として紹介がある。その他にも名称があって、焔魔堂、十王堂、絵馬堂、光明庵、光明寺などがある。陰暦の7月16日には「閻魔詣」という風習があったよう。
画像は編輯兼発行者 摩耶鋼索鉄道株式会社「摩耶山案内」コピーの一部。これによれば忉利天上寺の末寺とある。というわけで、天上寺に手がかりがあるかと思い、問い合わせてみることにした。
天上寺のお坊さんのお話
問い合わせたところ、現在は介護施設(スイートチャーム神戸摩耶)になっているとのこと。 ではその前は何があったのか?…民家という事以外、それ以前の経緯は天上寺のお坊さんはわからないとのことだった。話の中でわかったのは西灘村の上野字絵馬堂という地名は閻魔堂から来ているそう。 そして現介護施設の基礎部分の石垣がかつての寺の遺構として残っているとのことだった。光明寺は昭和13年の水害で流されてしまった。
地元の方のお話
地元の方なら何かご存知かと思い、ある日、ケーブル下駅からすぐの家で庭仕事をされていたMさんに「すみませ~ん、つかぬことを…」と話かけてみた。 するとこの方、古くからここにおられる方らしく、おじいさんが茶屋もされていたらしい。阪神大水害の話も聞けた。 現在スイートチャーム神戸摩耶がある場所(光明寺跡)は水害後、 墓場になっていたらしい。その後、外国人所有のテニスコート付きの豪奢な屋敷ができ、 さらにその後一般の方の民家となり現在に至る。
話は逸れるけど…この周辺はMさん宅より上は昭和30年ころは森であった。 それから造船で財を成した人たちが別荘を建てていく。 東急ハンズのあたりにあった新世紀のオーナーで 神戸のキャバレー王の別荘もあったらしい。 その後、造船業も傾いていく中、現在の箕岡通北の住宅が造成された。
現在のMさん宅からケーブル駅までの一帯はMさん所有地だったそう。戦中から昭和30年までは、駅舎の西にケーブルカーの残骸が積み重なっていたそうだ。そして42年の大水害。 それまで上流の谷から水を汲んでいたが、 それを境に中央区から水をとるようになったとのこと。 色々貴重なお話を聞けた。
語り部はいつしかいなくなり、歴史に埋もれていく。「摩耶山案内」は神戸市立図書館で閲覧可能です。
摩耶山の閻魔堂検索に、HILLS BEHIND KOBEに行き着く所となりました。
読ませて戴き、とても参考になりました。有難う御座います。
太田南畝の(革令紀行・文化元年)、清河八郎の(西遊草・安政2年)、アーネスト・サトウの(サトウ日記・慶応元年)から、摩耶山や布引の滝に関する紀行文に、大変興味があり、特に、閻魔堂の存在が気になったところです。
当時の道中人は、ガイドブック(攝津名所図会)を携えて旅を楽しんだのでしょうね。
shiratoriさん はじめまして。
ご訪問ありがとうございます。稚拙な内容で恐縮です。
いただいたコメントで逆に色々知ることができました。
挙げているもの、また目にしたいと思います。