峠茶屋跡の下に四丁。上のアメヤと同じくここ、下のアメヤにも敷地の一角にラムネの瓶が散乱している。
三丁。三ニ七.三米とある。五丁と同じく芳名がありこれも新しそうだ。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)を過ぎる。摩耶遺跡の説明板によれば、
宝篋印塔は通称「ほうけんとう」と呼ばれ、元々はお経を納める塔として建立された旧天上寺の遺構。このあたりで長峰に登ってくる摩耶東谷と青谷から登ってくる道が合流した。この他、天上寺までの距離を示した町石も上野道を中心に残っている。
これでいくと、ここはかなり重要な場所だったはず。摩耶東谷からの道、青谷からの道(=谷道だとすれば)は先週歩いたところだけど、参詣道として今一度歩いてみたいところ。青谷からの登りは幅広の水平道かもしれないけど。
宝篋印塔を過ぎるともうすぐ山門。巨木の森になってくる。
獻鐙の残骸が道の脇に転がっている。頭はどこに行ったのか。少し上、道が曲がる地点に土台が転がっているのでそこから転がり落ちてきたんだろう。
さて一丁。一○九.一米とある。二丁は探したけど、見当たらなかった。下の方は良いとして二丁は残ってていいと思うんだけど。
仁王門下には流石に石柱が多い。その中の1つ、「道程標 是よりケーブルまで六丁」。大正十四年七月吉日とある。参詣路線として摩耶鋼索鉄道(摩耶ケーブル)が開業したのが大正14年1月6日なので半年後に作られたものなんだなぁ。
下に転がっていた灯籠の元の形がこれ。しっかり残っている。仁王門の脇には立派なスギがあった。行者尾根から見えたスギではないだろうか。
石階段の東西を探索しながら史跡公園に来た。泥だらけ…風雨も強まってきた。このあとちょっと小尾根を下ったり谷の手前をトラバースしたり色々。またまた泥だらけ…。
さてひとしきり探索を終え、再び上野道を下っていく。摩耶ケーブルは運行中だったけどスルー。
上野道を下って十六丁から神戸高校方面に向かい、観音寺川沿いを下る。観音寺堰堤をすぎて右手、斜坑があった。似たようなものが、三森谷、新神戸、長峰にもあるけど…なんだろう。防空壕にも利用されていたのかな。
摩耶菩提所を過ぎると正面にウリボーがいた。睨み合いというか、Muscleを交わしたいようすで住宅地の方へ行ったりこっちへ来たり右往左往。道をゆずると一目散に山へ駆け上がっていった。
十八町の町石は文安四年(1447年)のもので兵庫県でも指折りの古さだそう。規模的にこれが天上寺の町石の最初期のもので一丁ごとに同時代のものがあったのだと思う。「関西 山越えの古道」によれば
…ここに至る様子を『摂津名所絵図』でも紹介している。「上野村の上方にあり。古義真言宗。坂口に焔魔堂あり。これより坂路十八町なり。一町ごとに標石あり。その路崢嶸として曲盤七折あり。一径蔚然としてやうやく半腹に登れば衆州を下瞰す。坂路には三箇の憩所あり。山頭に至れば仁王門あり。内外の石段七段すべて百九十八階なり。僧院八宇石段の左右にありて、やうやく仏殿に至る。」
やはり十八から先、一丁ごとにあったようす。しかし現在町石についてはほとんど失われていて、残存は今日確認分で18、17、16、13、5、4、3、1の8本+翌日山行で八丁(地蔵丁石)で計9本。登り下りで周囲も見てみたものの、おそらく昔のものが斜面に転がっているというようなこともなさそうに見えた。
本日の参考サイト
神戸の道しるべを訪ね歩く 上野道のページはこちら。
近世以前の土木・産業遺産 兵庫のページはこちら。
摩耶花壇 神戸の山麓に残る遺跡・歴史的資産の自己調査 該当ページはこちら。
新小児科医のつぶやき 該当ページはこちら。
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