2018年3月21日 春分の日の水曜日。11:27起床。先々週、kurokuwaさんから「摩耶東谷で宝珠が転がっているのを発見した」旨のコメントをいただいていた。週末に行きそびれたので今日行ってみることにする。
今日は雨予報だし、雨の中を歩くのも良いかなと思っていたものの…お昼を過ぎて晴れだす予想外の展開。加納町3丁目から市バス2系統に乗って五毛で下車。杣谷道に入ったのは13:50。
摩耶東谷に入ってすぐいわゆる「仙人」に遭遇。少しだけお話。ここ最近東谷を歩く人が増えたそう。ところで仙人、以前よりふっくらした?
弥生滝の上に寄ってみた。やはり人工的。左側のパイプと土台のコンクリ。これは東谷の上流で見られるものと同様なのかどうか。
深谷第二砂防ダムの上流に来た。ここは広い堆砂地になっていてかつての様子は不明だけど、古い地図から推し量るに左岸に旧参詣道があったのだろうと思う。
行者滝の上を過ぎる。岩場の方へハチワレが駆け上がっていった。どうやら住み着いているようす。以前滝下で黒猫が亡くなっていたこともあるし、猫の住処になっているのかな。
大日如来の岩の下にお賽銭。昭和56年の百円玉。前は無かったように思う。
深谷第三砂防ダムを越えて最初の小滝。ここはダムの堆砂地からすぐのところ。ここもかつての道は判然としない。
左手を見上げると建設省の境界杭があった。う〜ん、もしかして水平道でもあるのかな?というわけで登ってみる。
ダムの右岸に来た。こうしてみると道があるような、ないような…。下流側もウロウロしてみる。九十九折の踏み跡もあるにはあるけど、ダム工事のものとも思えるしよくわからん。
上流へ進んでいく。少し先の沢中に建設省の境界標が転がっている、その脇に…
これかぁ!kurokuwaさんが言っていた宝珠。感動ものだ。なぞると梵字が掘ってあるようにも感じる。宝珠と言えばख(キャ)だろうと思うけれど。それにしても綺麗に残っているもんだ。
ちょっと失礼して軸の部分を観察する。触ってみると縦にいくつか歯車状の溝があった。以前の探索でこの上流の二俣付近で皿状の遺構を発見していて(石灯籠の一部?)、教えていただいた宝珠はそれ関連かと思っていたものの、実際見てみるとこれはおそらく五輪塔(Wikipedia)の一部。ということは町石の一部だろうと思う。どこかに他の4つの部位がないかウロウロするものの発見にはいたらず。
二条の小滝の右岸に来た。う〜んどこかにあるはずなんだよなぁ…地輪の部分に「○丁(町)」と彫られているものが。また歩いてみようか。
しばらくうろつくも今日のところは諦める。天気も崩れてきているし先を急ごう。写真の奥で二俣になっていて、旧参詣道の左俣へ。本流との中間を登っていく。
灯籠の土台部分と思われる遺構。宝珠の遺構に比べるとやや荒っぽい造り。五輪塔とは別物だろうと思う。さて、昔の土砂崩れで現れたとかいう左俣入り口の門番のような滝を左下に見ながら進む。
谷筋を詰めて宝篋印塔の南で上野道に合流。帰りは改めて見たいものがあって上野道を歩くことにした。
改めて見たかったのがこれ、十三丁の五輪塔。五層になっているでしょ?地輪=一番下の四角柱に「ह्रीः(キリーク)十三丁」とある。今日東谷で見たのはこのてっぺんの丸っとした空輪。しかしこの五輪塔は花崗岩を削りだしたもののようで、東谷で見た宝珠のように連結するための軸に相当する部分は無い。摩耶ケーブル下駅の十八“町”の町石も同様。う〜ん、こうした造りの違いはなぜだろう。まだまだ謎が多い。
kurokuwaさん、この度は貴重な情報ありがとうございます。
最初に掘り出した藪の中さん、感謝いたします。
※参詣道関連の記事が増えてきたので過去記事に「参詣道」タグを付けました。
MuscleTurtleさんが歩かれたゴミだらけの平坦地はロープウェイ駅に出る直前ですよね。あそこはあのあたりにあった茶屋や食堂やらのゴミ捨て場だったのではないかという気がしています(「ゴミ掘り業界」では「ハケ」というそうです)。今回の廃墟は別の場所です。
それからマヤカンの南斜面では米軍の軍用食器を見つけたことがあります。マヤカンが進駐軍に接収された記録はないと思うので可能性は1.それでも占領期になんらかの目的(例えば日本軍の高射砲の撤去とか)で摩耶山に入って宿営地として休業中のマヤカンを使った。2.占領期が終わったときに米軍のもろもろが市中に払い下げられてこれが流通した。いずれも私の妄想ですが、まあ後者でしょうか。アンティークの雑貨屋とかでもたまに売りに出るようです。いずれにしろもうちょい下まで探してみます。
(ちなみにゴミの発生源から離れると単純にゴミは減るか地中深くに埋まります)
別の尾根でしたか。まだまだ勉強不足、歩き足りないようです。教えていただいてばかりで…ありがとうございます。
アンティークにも興味を持ってあるいてみようと思います。
摩耶東谷ネタ、盛り上がっていますね。
藪の中さん
kurokuwa65さん
MuscleTurtleさん
こんばんは。
藪の中さんが掘り起こしたものとのこと、
何度も歩いている谷なのに、
見つけられなかったはずです。
やはり遺物は、ある程度埋まっていることを
前提に探索しないとダメですね。
六甲山系、装丁の地形図を
ネガポジ時代の写真用ルーペで確認してみました。
摩耶東谷の文字の「摩」の右上(139の数字の左)と
「谷」の右側の二箇所に黒い長方形が確認できますね。
私のものも、MuscleTurtleさんと同じ
昭和38年4月1日印刷のものです。
明日(24日)も仕事で、山には入れませんが、
また、じっくり摩耶東谷を歩いてみたいと思います。
Tokiwaさん おはようございます。
ルーペ確認ありがとうございます。
想像通りなら、他のパーツもあるはずですよね。
ぜひ見てみたいと思っています。
作業は困難でしょうけど…。
こちらもまた改めて訪れてみます。
kurokuwa65さん、MuscleTurtleさん
わたしは全然大丈夫ですよ!しょーもないもの探して「おー」とか「わー」とか盛り上がってるだけなので。
またいろいろ教えてください!!
いや、全くお恥ずかしい!
藪の中さんが発掘したものと知らず、ビギナーズラックでまるで自分が見つけたかのような言い分、穴があったら入りたいです(;´Д`)
藪の中さんには、不快な思いをされたのではないでしょうか。
muscleさんのブログですが、この場をお借りしてお詫びいたします。
それにしても、みなさんの情報量の多さと精力的な活動には本当に驚くと同時に大変尊敬します。
これに懲りず、また痕跡探しに行ってみます。
kurokuwa65さん
いいじゃないですか!不快な思いはされていないと思いますよ、きっと。
藪の中さん 興味深いです、本当に。
なにか発見ありましたらぜひ共有(一方的な発信含め)していきましょう!
黒い四角は1mmぐらいの大きさだったと思います。にらめっこしてみてください。
実は菊水山には行ったことがないんです。まだまた未踏の地ばかり。いま見に行ってみようと思っているのは有馬の「学者村」周辺です。ゴミ的にはあまり期待はしていませんが。ここは戦中に北野に逃げてきたユダヤ人たちがさらに逃げた場所だとかいう話をどこかで読みました。いや、これもあいまいな記憶で、全然違う話だったかもしれませんが。
さて明日もどこかを歩きます。おやすみなさい。
度々興味深い情報ありがとうございます!学者村、また調べとこ。
お気をつけて行ってきてください。
また発見があることを願って。
さてどの部分が地形図だったでしょうか。いずれにしろ摩耶東谷のあたりが出ていたと思います。
私が発見した廃墟と地形図上の四角が同じものかはわかりません。柱は腐り、屋根だけが地面に乗っかっている小さな小屋跡でしたが、全面にブルーシートがかけられていましたし、周囲の鍋や調味料が比較的新しかったので、あるいは山で作業される方たちの飯場かもしれません。
善助茶屋の土管は井戸とは別のものです。最初「甕」かと思い掘り始めたのですが、30分奮闘の果てに出てきたものは半円形の大きな土管でした。笑い話にしかなりません。でもあそこの谷は大正・戦前のものがたくさん落ちていたんですよ(わたしがほぼ拾い尽くしちゃいましたが)。
地形図と呼べるものは最初と最後だけのようです。かなり広範囲でルーペで見ないと…くらいの感じです。
廃墟は私の思い違いだったのか…いつかたどってみようかと思います。
善助茶屋東の井戸は当然御存知でしたよね。私はたしか3年くらい前に寄ったくらいでして、周辺に土管があったんですね。
それにしても30分掘る気合がすごいです。そして30分奮闘する気持ち大いにわかります。
六甲山はあらかた彫り尽くしたのでしょうか。
今後菊水山南、山麓周辺も行こうと思っていますが、あのあたりは近年まで人が住んでいたということですし、微妙ですかね。
新たな発見楽しみにしております。
MuscleTurtleさん、またまたお邪魔します。
あの宝珠、2/14にあの場所で半分埋まっているのを発見して掘り出しておきました。私も周囲にまだ何かないかと探しましたが、やはり見つかりませんでした。最近は表層のゴミが枯渇してきて、ちょくちょくいろいろなものを掘ります。先週も善助茶屋東側の谷で土管(たぶんそこそこ古いものです)を掘ってみたり。。。
ところで前回お尋ねした、摩耶東谷のつぶれた廃墟。あのあと気になって再び探しに行きましたが、すっかり見失ってしまいました。そもそもは毎日新聞社刊『六甲山系』の装丁が古い地形図で、それを睨んでいたらちょうど摩耶東谷の部分に建物を示す黒い長方形を発見したのがきっかけです。手元の本が見つからなくなって再確認ができないのですが、少なくとも当時はいまある行者堂とは別のものに見えたもので。もしお持ちでしたら、確認してみてください。
長々とすみませんでした。過去の痕跡を探すのは面白い!
藪の中さん こんばんは!
な、なんと!あれは藪の中さんが掘り出したものだったんですね!
突き抜けたマニアックぶり…感服いたします。
善助茶屋の東側と言えば怪しげな井戸?があるあたりでしょうか。
あれを掘ったんですか?すごっ!
手元の「六甲山系」を久しぶりに開きました。(買って以来ほとんど手付かずで改めて)
古い地形図はめくってすぐの?あるいは最後のものでしょうか?
手元のものは昭和38年4月1日印刷のものです。
直接関係はないですが、手持ちの本にはしおりの代わりに植物園の入園券、回る十国展望台の入場券があり、最終ページに俳句が書かれている4枚の紙が入っている仕様です。これはこれで貴重なのかも知れませんね。
買って満足しているだけでしたので改めて六甲山系読み進めようと思います。
※記録に加筆しておきました。
MuscleTurtleさん、こんばんは。
あの物体は「五輪塔の空輪」と呼ばれるものなのですね。とても勉強になりました。
Muscleさんのおっしゃる通り町石と言う事であれば、元々案内柱として沢沿いの分岐点に有ったのではと想像します。
偶然見つけたものですが、探索の手助けになって嬉しく思います。
また東谷へ行った際には気を付けておきます(^^)
kurokuwaさん こんばんは!
想像に過ぎませんが形状から間違いないと思っています。
二俣の分岐から転がった可能性も否定はできませんね。こればかりは自然の為せるわざですし。
仙人の話からkurokuwaさんのことを言っているのかなと思ったりしたり…
変な言い方ですが、また訪れた際はよぜひ!
こうした情報共有は本当にうれしく思います。今後ともよろしくお願いいたします。
MuscleTurtleさん、こんばんは。
摩耶東谷、今度は宝珠がでましたか。
遺構が残っているなら、
支谷に入ってからだろうと考えていたので、
宝珠の丸い構造上、流れてきた可能性もありますが。
第三の上流で発見されたのは意外でした。
本谷は水害の被害が大きく、
過去文献などから、かなり埋まっていて
遺構の発見は難しいと考えていましたが、
下流側から丁寧に探索しないとダメですね。
摩耶東谷を歩かれる方が増えたとのこと。
歩く方が増えると、新しい発見があるかも知れませんね。
また、私もまた摩耶東谷を歩いてみます。
Tokiwaさん こんばんは!
まさか、あれを見落としていたなんて…。いやたまたま顔をのぞかせていたのか…。
kurokuwaさんの発見に感謝しているところです。
見たところ町石の一部で間違いないと思っているものの、風輪以下他の部分は見当たらないのでなんとも…。
流れてきたかどうかについても考えてみましたが、現場の感じから分岐の上から小滝の下まで流れるのは無さそうに思いました。二条の小滝の下は見て回りましたが右岸が崩れていて一部埋まっていますし、流石に掘り返す時間もなく。
仰るようにまだまだ気が抜けません。二条周辺を中心にまた何度が谷道、谷中を歩いてみようと思います。