斜面を北へ進んでいくと謎のフェンスが現れた。最初はフェンス左側=下流側を進むもしんどくなってきたので、ここに戻って右側=上流側を北へ進むことにした。
右を見上げると謎の塩ビのパイプが垂れていた。あとから思えばその先を探っておくべきだったか…。
わずかの距離でフェンスが途切れる。いつぐらいのものなのか。
1963年頃とされる航空写真に別途記載してみた。今歩いた箇所(図中「道がある」)は堰堤から現在の天狗道取り付き付近に伸びる道のようだ。こんな道があったんだなぁ。
フェンスが途切れた地点から西へ斜面を下ることにした。足元には市章が刻まれた杭と、転がるコンクリは手すりの一部か。う〜ん謎。
下るとすぐに平たい場所があった。長靴やヤカンなどが転がっていて、どうやらここは飯場であったことが伺われる。蒼ざめた馬さんのブログにある「通称 ハンバ」はここだろうと思う。ブログの記述とあとから見合わせると、ありありと当時のようすが浮かぶ。
飯場があったと思われるところを振り返る。階段もあって、なかなか立派な石垣が組まれている。
階段を下った地点から北へ進む。謎の土管が転がっている。しかし本当に立派な道だなぁ。
左側を見下ろすと朽ちた住居が目に入る。ここらあたりは昭和42年7月豪雨の被害(Wikipedia)を免れたと思われるものの、移住したんだろうと思う。神戸新聞NEXTの記事はこちら。さて進む。
Muscleさん、こんにちは。
いつも精力的な記事を楽しみに拝見しております。
地蔵谷の遺構は、私も以前行った際穴凹が気になった記憶があり、なるほどと記事を読まさせて頂きました。
それから、看板は危険の「危」と読めますがいかがでしょう?
ひし形に設置されていたものと思います。
kurokuwa65さん こんにちは!
kurokuwa65さんの楽しい山行、うらやましく思っています!
そういえば危険の「危」ですね!! 斜めか…そうですね! 真四角のときは斜めを疑え!を肝に命じます(笑)
MuscleTurtleさん、おはようございます。
興味深々で記事を拝見しました。
まずは市ヶ原集落。
世継山の土砂崩れは、山頂へ向かって谷止工が続いてる部分ですから、
北側エリアはしっかり住宅が残ってるんですね。
山歩きを始めた頃、市ヶ原から天狗道に向かう坂からこのエリアが見えて、
MuscleTurtleさんが見つけられた現役の耕作地と
その付近から草でも燃やしているのか、
煙が上がっているのを何度か見たことがあります。
住人がいる可能性もあったので、アンタッチャブルなエリアになっていました。
詳細が判って、少しすっきりしました。
古いタイプのフェンスですが、
市ヶ原からハーブ園東尾根に抜ける道にも同じものがあります。
確証はありませんが、ゴルフ場敷地境界のフェンスかも知れません。
次に地蔵谷。
平硝子は見つけたのですが、タイルがありましたか。
六甲砂防史などでは、どの堰堤も飯場に関する情報は掲載されておらず、
詳細は不明ですが、やはり飯場であった可能性が高いですね。
最後に学校林道のコンクリート基礎ですが、
これも確証はありませんが、写真のコンリートの雰囲気から
おそらく東山砲台(三七一高地 高射砲陣地)
関連のものではないかと推測します。
戦後すぐの航空写真でも、4本鉄塔辺りに、
人工的な平地が確認できます。
軍関連の建物があったのではないか思います。
Tokiwaさん こんにちは!
市ヶ原集落は前回の山行で小ピークがやけに気になってしまい…結果集落探索だけで小ピークも登ればよかったと思います。
あの集落の重要ポイントとして、縦走路の水場でもあった涸れた井戸と、茶屋跡(現在の転回場)、登山会広場のお地蔵さんなどがありますが、
あのピークにも何かあるのでは?と睨んでいます。
それにしても、現在もいらっしゃるのか…どうなのか。
あまり立ち入るのもあれですが、いずれにせよ現在は神戸市の土地と思われるフェンス外の通路で、”普通に歩けば”ですが「個人の敷地内を通る」という展開にはならないかと思います。
例のフェンス、そういえばありますね! すっかり忘れてました。
地蔵谷の遺構、基礎の上に積もった土を少し取り除いてみたものの、限界を感じ途中やめ。
やはりそのように感じました。
そもそもですが、地蔵谷の由来もとても気になっているところです。
昔の航空写真との比較は本当に面白いですね。今はない道があったり。
学校林道周辺はあまり見ていないのでまた見てみようと思います。
今回も色々教えていただいてありがとうございます!