すぐにかつての(水害前の)姿を残した門があった。南側の世継山の崩落に飲み込まれた集落は全く残っていないけど、こちら側には残っているんだなぁ。
水瓶らきしものには雨水がなどが溜まっているのか今なお現役。
ところどころにこうして水瓶らしきが残っている。
なるほどこうした作りの住居が布引谷の集落を形成していたのか。扉のガラスをみるとノブのところが割られていた。火事場泥棒の類か。
さきほどの住居から北のお宅はやや可愛らしい外壁。他とは趣を異にしていて、それはおそらく別荘だろう。
一角にはトイレの建屋が転がっている。基礎のコンクリには便槽が埋まっていた。
崩れた一角を過ぎて進むと左手に畑が見える。どうも現役のようで、耕作が行われているようす…。右手には廃屋が見えている。
道はしっかりしていて歩きやすい。明るい奥の方へ進んでいく。進んだ先でやや左に曲がっていく。
道が西へ向かい出す頃にどうも現役な感じの住まいが右側に見られだす。いや、しかし住んでいたとしてもかなり高齢の方だろうと思う。う〜ん、でも遅い時間にここら辺りですれ違った方は記憶にないし、もう住んでいないのかも知れない。
北側の「行き止まり道標」まで周ってきて縦走路に合流。いつものクセで少々長居しすぎたか…。
道なりに進んで、もう崩落の面影はない世継山の北斜面。写真では緑の重なりでわかりにくいだろうけれど、手前に小さなピークがあって、集落はピークを巻くように連なっていた。
なんだかお題2が主題になってしまった感は否めないけど、正味今日のお題は地蔵谷の遺構再探索。15:02 地蔵谷に入る。
Muscleさん、こんにちは。
いつも精力的な記事を楽しみに拝見しております。
地蔵谷の遺構は、私も以前行った際穴凹が気になった記憶があり、なるほどと記事を読まさせて頂きました。
それから、看板は危険の「危」と読めますがいかがでしょう?
ひし形に設置されていたものと思います。
kurokuwa65さん こんにちは!
kurokuwa65さんの楽しい山行、うらやましく思っています!
そういえば危険の「危」ですね!! 斜めか…そうですね! 真四角のときは斜めを疑え!を肝に命じます(笑)
MuscleTurtleさん、おはようございます。
興味深々で記事を拝見しました。
まずは市ヶ原集落。
世継山の土砂崩れは、山頂へ向かって谷止工が続いてる部分ですから、
北側エリアはしっかり住宅が残ってるんですね。
山歩きを始めた頃、市ヶ原から天狗道に向かう坂からこのエリアが見えて、
MuscleTurtleさんが見つけられた現役の耕作地と
その付近から草でも燃やしているのか、
煙が上がっているのを何度か見たことがあります。
住人がいる可能性もあったので、アンタッチャブルなエリアになっていました。
詳細が判って、少しすっきりしました。
古いタイプのフェンスですが、
市ヶ原からハーブ園東尾根に抜ける道にも同じものがあります。
確証はありませんが、ゴルフ場敷地境界のフェンスかも知れません。
次に地蔵谷。
平硝子は見つけたのですが、タイルがありましたか。
六甲砂防史などでは、どの堰堤も飯場に関する情報は掲載されておらず、
詳細は不明ですが、やはり飯場であった可能性が高いですね。
最後に学校林道のコンクリート基礎ですが、
これも確証はありませんが、写真のコンリートの雰囲気から
おそらく東山砲台(三七一高地 高射砲陣地)
関連のものではないかと推測します。
戦後すぐの航空写真でも、4本鉄塔辺りに、
人工的な平地が確認できます。
軍関連の建物があったのではないか思います。
Tokiwaさん こんにちは!
市ヶ原集落は前回の山行で小ピークがやけに気になってしまい…結果集落探索だけで小ピークも登ればよかったと思います。
あの集落の重要ポイントとして、縦走路の水場でもあった涸れた井戸と、茶屋跡(現在の転回場)、登山会広場のお地蔵さんなどがありますが、
あのピークにも何かあるのでは?と睨んでいます。
それにしても、現在もいらっしゃるのか…どうなのか。
あまり立ち入るのもあれですが、いずれにせよ現在は神戸市の土地と思われるフェンス外の通路で、”普通に歩けば”ですが「個人の敷地内を通る」という展開にはならないかと思います。
例のフェンス、そういえばありますね! すっかり忘れてました。
地蔵谷の遺構、基礎の上に積もった土を少し取り除いてみたものの、限界を感じ途中やめ。
やはりそのように感じました。
そもそもですが、地蔵谷の由来もとても気になっているところです。
昔の航空写真との比較は本当に面白いですね。今はない道があったり。
学校林道周辺はあまり見ていないのでまた見てみようと思います。
今回も色々教えていただいてありがとうございます!