2019年2月10日 日曜日。11:02起床。今日は神戸市境界石があったであろう林田区の境=明治時代の神戸市の西端を歩いてみようと思う。このエリアは去年の1月に歩いているんだけど、少々道筋が違ったみたい。以前ロシア地理雑学サイトを運営されている方にこの辺りのかつての境界についてお聞きして、違うことを知った次第。とても丁寧に教えていただいたやり取りから半年以上経ってしまった…。
JR鷹取駅で下車し、南進。「昭和シェル石油神戸事業所保税工場」あたりにきた。ここら辺りがかつのて始点かな(終点は2号線灘区と中央区の境あたり)。ここにおそらく1号石柱があったと思われるものの…当然あるわけはなく。
さて、奥に見える高取山方面へ向けて進むことにする。正面に見える路地を北進。
ちなみに教えていただいた境界がこちら。鷹取駅周辺などなど、一部に現在は歩くことが困難な場所はあるものの、なるべく忠実にトレースするつもり。
鷹取駅の南側から線路に沿って東へ進むと「海運町架道橋」。ここをくぐって北へ進む。なかなか味のある架道橋だ。※去年は線路の北側を進んだ。
架道橋を抜け、ふと左上の線路側を振り返るとコンクリート壁に何やら数字が刻まれていたので登ってみた。
1957-7と刻まれているようだ。1957年7月の意味だろうけど、一体何があったのか。「鷹取駅」や「鷹取工場」のことなどはWikipediaに任せるとして、この時期に何かトピックスがあったかな?
道なりに北へ進み「ゼブン-イレブン神戸須磨大池町店」の北を西へ。すぐに「鷹取駅北公園」がある。
公園ではおじいさんと孫がラジコンカーで遊んでいた。なんだかほっこりする光景だ。さて、公園の西側を北へ上がる。道路の向かいには「神戸市立だいち小学校」。
東へ向いて。写真右側の建物は「神戸市水道局西部センター」、左側は「フレール須磨たかとり5号棟」。この間が境なはずだけど、進めず。
西へ向いて。先程の写真から反対側=東側へ回ってきた。当然石柱の類は見られない。90°曲がる地点だし石柱があったんだろうと思う。
大田歩道橋から東へ進み、すぐ「播州信用金庫」から南へ、「ライフの駐車場」からまた東へ。「名倉食品株式会社」の角から南へ進む。忙しない展開だ。
Muscleさんこんにちは
その日(10日)板宿に用事があったのですが時間があったので
西代と新長田の間を自転車に乗って30分ほどウロウロしていました。
それにしても境界石って扱いが悪くないですか?
他の道標とか記念碑とかの石柱は戦前の明治・大正・昭和のものが結構残っていますから。
今更ながらですが、この境界石って神戸市の市域を示したものですよね。
調べてみますと須磨側が1920年(大9)、灘側が1929年(昭4)に合併により市域を広げています。
これを今に置き換えると平成元年に境界石が立てられ、
平成21年に須磨側、平成30年に灘側の神戸市の境界が変わったことになります。
今でこそ100年以上前に建てられた歴史的遺物ですが、
当時では単に以前の古い境界を示すものとして意図的に撤去していったのではないでしょうか。
現在なら必ずそうするでしょうしね。
そう考えると116号が奇跡的で、もう街中には無いのかな~。
街歩き人さん こんにちは!
行かれていましたか。こちらの出発が早ければ?お会いできたかも知れませんね。
現代に置き換えて…そう言われてみると、本当にそうですね。
取り扱いについては個人的には残念なところもありますが、意味がなくなったことですしやむ無しですか…。扱いの話で行くと、獅子ヶ池近くのカインズ東側の茂みにある石柱が杭として再利用されていました。これは意外…。
六甲山内に現存する一里塚の境界標は明治44年、一方市境界石は明治33年でより古い石柱ということでロマンを感じている次第です。
それにしても石柱はやたらと重いし、斜面などにはよく設置したなと驚きます。
仰るように何度か歩いた感じから、街中にはもう無いでしょうね。
西側は神戸常盤大学のビオトープ内にもしかしたら…といったくらいのもので。東側は海星から文学館までの区間の道路脇の茂みを歩いてみたり、34.713999/135.209639の二股にもあったはずで、溝に再利用されていないか見てみたり…
前回にもありましたが、雲雀ヶ丘〜大日丘町辺りはまだ可能性が残されていますので、あと2回くらいは行ってみるつもりです。※これまでマニアックに2回歩いて空振りでしたが…。しかし思い込みで見落としがあるのは経験済み。頑張ってみます。