当ブログにコメントをいただいた藪の中さんが掘り出し、ロッコペリさんに教えていただいた宝珠はまだコロンと残っている。
参詣道分岐に来た。本流は右奥で左俣が参詣道の続きで門番のような滝がある。ここは分岐地点ということから要所だったはずで…。
こうしてみると、どれもこれも怪しく感じられ…改めて岩を一個一個ひっくり返してみる。しかしそれらしいものは見当たらない。
探索は諦めて上流へ進む。左俣は2015年に歩いているので奥本流へ。
ある意味どんつき。写真右に見えるのが本流にかかる滝。直登はまぁ無理だろう。
正面の壁には残置ロープが多数。ロープを頼らず登れるかな?と思い登ってみると案外行けた。フック状の根がなかったら無理だね。
実はこの先=摩耶東谷を詰めきっていないMuscle。ここからは諸先輩方の記録では見ていたものの初めて。
ここまで来てもなかなか水量はあるんだなぁ。
進むと右手にボテッとした滝が現れる。通常は写真左奥へ詰めていくようだけど、ここがおそらく最後の大きな滝。というわけで、この滝の先で谷を詰めていくことにした。
思った以上に地味なものの、わずかに水流がある。進んだ先では徐々に大きな岩が見られだす。
谷筋を詰めていくとひどいゴミ斜面になった。ビニール袋のゴミの数々。これは一体どうしたことか…。摩耶山周辺の谷筋で一番ひどいんじゃないだろうか。なんだかどんよりとした気分の中、最後の急斜面を喘ぎながら登っていく。
結果飛び出したのはここ。山寺尾根の「通行止め」看板があるところ。そもそも今日の目的は天上寺のヤマボウシを見に行くことだったよね。
MuscleTurtleさん、おはようございます。
町石、確かに堰堤堆積物の下だと発見は困難ですね。
古い文献を読んでいると、摩耶山(天上寺)の力は
やはり強大で、同じく「灘・神戸地方史の研究」に、
~以下引用~
灘区や、東灘区の旧本山村地方では、現在宗旨は変わっていても、
かつては摩耶山天上寺の末寺の寺院や祠堂がすくなくなく、
また末寺あるいは寺領の跡だといわれる字名が残っている
(中略)
明治中期まではこの地方の旧家の仏事やあるいはお当講などに、
宗旨には関係なく供養として招かれていることも多い。
明治初年、塔頭明王院が岡本へ移転したのも、
そのような関係からであろうか。
~ここまで~
とありますので、市街地の随所に摩耶山を示す
道標があるのは、理解できる気がします。
その道標の示す道が山麓でどこに集約していたかまでは、
今のところ、これといった記述は見つかりませんね。
明王院については、以前に「不動山」の時に
コメントさせて頂きましたが、
摩耶山の塔頭であったという出典もこの文献です。
同文献には、以前MuscleTurtleさんが言及されていた
宝篋印塔付近とあったと思われる古大門に関しても、
江戸時代初期の文献に、仁王門の南に、
古大門と屋敷があったと、文字による略図が記載されています。
Tokiwaさん こんばんは!
なるほど、そういう下地があって現在も点在しているわけですね。
手元には「神戸の道標」という本がありますので、いずれまとめてみたいと思います。
町石がある上野と青谷はさておき、旧摩耶道と摩耶東谷についてはもう少し詰めてみたいところです。
旧摩耶道は色々と整備されてきた話は以前お聞きしましたが、どうにも現在のあの道の細さがきになります。
摩耶東谷に至ってはいうまでもなくあんな感じですし。
二俣から左へ入ってすぐの滝、あれはたしか水害後に現れたと
たしか「六甲の谷と尾根」に記述があったように思いますが、西へ向かい始めるところから宝篋印塔まで
かつてはどんな道筋だったのか。やはり諦めずにあと何回かは歩いてみようと思います。
追伸:昭和3年の木下東作 著「六甲山」P31に摩耶道=摩耶ケーブル終點(靑谷より)ー摩耶山ー三國岩ー六甲園事務所(約二里強)とありますね。
大正13年の近畿登山研究会 編「近畿の登山」にも摩耶山本道、あるいは摩耶本道(堂)とあって、どちらも靑谷となっていますね。上野道もその他の摩耶山本道として挙げられていますが。
どの時からか、そちらが青谷が摩耶道のメインとなって、もとの摩耶道は「旧摩耶道」として廃れていったのでしょうか。
MuscleTurtleさん、こんばんは。
旧参詣道探索お疲れ様でした、やはり何も出ませんね。
私も今日、天上寺に行きましたが、入れ違いでしたね。
「灘・神戸地方史の研究」に、
摩耶ケーブル下駅にある町石について以下の記述があります。
~以下引用~
町石には町数と年号はあるが、施主の名がない。
中世後期、都賀庄などを含む灘衆は、いちはやく自治組織をもち、
「惣」という結衆がみられたが、
あるいはその「惣」の力で建てられたものではないだろうか。
現在はこれ一基だが、古老の話では旧参道にも一、二本残っていたという。
~ここまで~
気になるのは最後の部分ですね。「旧参道」が旧参詣道を指すなら、
どこかにまだ町石が眠っているかも知れません。
おそらくは、度重なる水害で、深い地中だと思いますが。。。
宝珠が見つかるなら、町石も可能性はあるかもと思っています。
どこかに埋もれているなら、逆に豪雨の後がねらい目かも知れませんね。
Tokiwaさん こんばんは!
灘・神戸地方史の研究、これは知りませんでした。また図書館で見てみます。
ここ最近気になっているのが、市街地の道標がいう「まやみち」「まや山道」などがどれを指すのかっていうことです。
旧摩耶道は、今も残る名前ですが、いったいどれを指すのか。六甲方面(住吉とか魚崎方面など)からは摩耶東谷なのか、上野道なのか。
魚屋、唐櫃、有馬、住吉などなど、「神戸市の道標」にある古道はわかりますが…。
その他、上谷上から摩耶へ至る主要道なども気になっているところです。
埋まっているという部分、第二堰堤のあの大きな堆砂地の深い部分に埋まっていたらお手上げですね。